「Re-Design」STORY vol.1
「ホテル イル・パラッツォ」の誕生と歴史

Nacása & Partners Inc.
1989年12月、福岡の繁華街に隣接する春吉(はるよし)地区に突如現れた、「ホテル イル・パラッツォ」。今ではデザインホテルの先駆けとして知られるこのホテルは、どのような経緯で誕生し、地域と関係しながら時代を生き抜いてきたのか。
アートディレクションとインテリアデザインを務めた内田繁氏や建築を手掛けた世界的建築家アルド・ロッシ氏、そのほか、数多の先駆的クリエイターたちの仕事をふりかえりながら、「ホテル イル・パラッツォ」の歴史とその魅力に迫る。
「ホテル イル・パラッツォ」誕生の背景

はじまりは、約37年前にさかのぼる。
天神と博多の中間地点にある、九州最大の繁華街・中洲。その対岸にある春吉というエリアは、近年こそ開発が進み若者や観光客でにぎわっているが、数十年前までは人通りが少なく、路地裏の雰囲気が漂っていた。
この地区を再開発する話が進むなか、その計画を依頼されたインテリアデザイナーの内田繁氏は、デザインはもちろんだがそれ以前に、計画全体を統括するアートディレクターとしてプロジェクトに参画することになった。

内田繁氏たちは、未来に向けた都市計画を煮詰めていく。その過程で、まず最初に24時間いつでも人が集まれる交流の場が必要だという結論に至り、飲食や宿泊など複合的な機能をもつホテルを建設する流れとなった。
初期の構想では、春吉を5つのエリアに分け、リバーサイドの環境を生かして包括的な再開発計画では、このエリアにおいて「ホテル」はどんな役割を果たすべきなのか?
その思考の足跡は、ホテル開業時に配布されたプレスリリースの資料に明確に記されていた。
ホテルは訪れる人にとって日常の延長ではなく、異質の経験をしたり感動を享受する空間です。そこで受ける楽しみ —知・遊・食・もてなし— は高度に特化されたものだと言えるでしょう。そうした意味では、ホテルはただそこに泊まって、食事をするという機能を持つだけのものではなく、文化を提供する場として捉えることができます。
(開業時のプレスリリースより抜粋)
こうした考えから、一過性の建築物ではなく、時代とともに地域に生き続ける社会遺産となるべきものをつくることを目指した内田氏は、まちの新たな歴史を創造するに足る力強い建築を求めて、アルド・ロッシ氏に設計を依頼した。1986年暮れのことだった。
打ち合わせ中のアルド・ロッシ氏Nacása & Partners Inc.
内田繁氏とアルド・ロッシ氏による建築プラン

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アルド・ロッシ氏は、SDA NY(ストゥーディオ・ディ・アルキテクトゥーラ、アルド・ロッシの建築事務所)のモリス・アジミ氏とともにホテルのプランニング及び設計を進めていった。
彼らのマスタープランでは、ホテルのまわりには会議場やレストラン、ディスコなどが並びさまざまな建築が立ち並び、川沿いのテラスには小さなレストランやバーを設ける構想が描かれていた。水辺の景観を生かし、春吉エリアに新しいウォーターフロントをつくり出そうとイメージしていたのだ。
当時の春吉付近の都市計画をイメージした
アルド・ロッシ氏のデッサンNacása & Partners Inc.
1987年初頭に、施設の基本コンセプトと計画概要が決定。その後、アルド・ロッシ氏と内田氏が協議を重ね、ホテルの構想は駆け足で進行していった。そして、同年11月には、アルド・ロッシ氏の最終スケッチと基本設計が完了。ほぼ現在のホテル イル・パラッツォに近いかたちにまとまった。
アルド・ロッシ氏によるドローイングNacása & Partners Inc.
「ホテル イル・パラッツォ」という名称の由来
当時の関係者によると、「ホテル イル・パラッツォ」という名前が決まったのはこの頃のようだ。「イル・パラッツォ」とは、イタリア語で「館」という意味を持つ。正式には貴族階級や高官の邸宅を指すようだが、この命名は、アルド・ロッシ氏によるものであったという。「猥雑な都市のなかの安住の場所、人々はここに帰り、安心して休む」というニュアンスがホテルの名称に込められている。

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ヨーロッパの建物と言えば、石造りの重厚な外観に、中庭や噴水を中心として周囲に居室やアーケードといった生活空間が広がっているイメージだ。
「パラッツォ」のイメージとは別に、建築は、基壇を一歩上がることで、都市のレベルと縁を切り、俗世を離れた窓がなく象徴的でモニュメンタルなファサードが強調され、古典建築の原理を応用したピアッツァが建築と一体となってその空間をつくり出している。周囲には街レベルの路地と低層の建物が建ち、小さな都市を思わせる構成になっている。

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ファサードの赤い大理石のコラムと梁型の緑の銅による力強い構成。
写真のクレジットはすべて Nacása & Partners Inc.
「ホテル イル・パラッツォ」誕生の背景

建物は、2,517㎡の敷地に、地下1階、地上8階、延べ床面積5,917㎡、客室数62という規模で設計された。ホテル部分はフロント・ロビー、メインダイニング・レストラン、客室からなる本館と、4つの個性的なバーが入る2つの別棟から構成される。

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2階のエントランスホール・ロビー、メインダイニングのインテリアデザイン、家具・小物のデザインは、内田繁氏と三橋いく代氏が担当。

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洋室
7階の和室
写真のクレジットはすべて Nacása & Partners Inc.
写真のクレジットはすべて Nacása & Partners Inc.
また、別棟のテナントには4つのバーがオープン。イタリア・ミラノを中心に世界的に活動していた建築家エットーレ・ソットサス氏による「ZIBIBBO(ズィビーボ)」、日本のインテリアデザインの先駆者の一人、倉俣史朗氏による「Обломов(オブローモフ)」、アルド・ロッシ氏による「EL DORADO(エル・ドラド)」、イタリア出身のガエターノ・ペッシェ氏による「EL LISTON(エル・リストン)」が個性的な空間をつくりあげた。
いずれも、60年代から世界のデザイン界をけん引してきた、錚々たる顔ぶれだ。
エットーレ・ソットサス氏による「ZIBIBBO(ズィビーボ)」
倉俣史朗氏による「Обломов(オブローモフ)」
アルド・ロッシ氏による「EL DORADO(エル・ドラド)」
ガエターノ・ペッシェ氏による「EL LISTON(エル・リストン)」
写真のクレジットはすべて Nacása & Partners Inc.
本館地下には、ディスコティック「THE BARNA CROSSING(ザ・バルナ・クロッシング)」がオープンした。デザインを担当したのはスペインの若手建築家、アルフレッド・アリーバス氏。インテリアデザインからグラフィック・アクセサリーデザイン、フード・ドリンク、エンターテインメント、オペレーションに至るまで、スペイン・バルセロナで活躍するクリエイターたちと協力して空間を仕上げた。
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第一線を走るクリエイターたちが結集
開業時に「ホテル イル・パラッツォ」が脚光を浴びた理由は、細部に至るまで本物の大胆にデザインが追求されていたからだろう。デザイン界の第一線で活躍するクリエイターたちが招集され、ホテル業界のみならず各分野から注目を集めたのだ。
グラフィックデザインNacása & Partners Inc.
- ■デザイナー 田中一光氏
ロゴデザイン、ポスター、ステーショナリーなど、ビジュアル面をトータルで担当。 - ■コピーライター 日暮真三氏
- ■照明デザイン 藤本晴美氏
- ■ユニフォームデザイン ZUCCa
ホテルおよびレストランの支配人、従業員が着用するユニフォームは、1989年秋冬物コレクションよりコーディネートされた。 - ■ホテル客室のアクセサリー、美備品、リネン類コーディネイション 山田節子氏
- ■「RISTORANTE IL PALAZZO」 4つのバー:フード&リカー・アドバイス 青山「Isshin」チーフ・シェフ笹尾十三夫氏
- ■「RISTORANTE IL PALAZZO」 4つのバー:グラフィックデザイン 矢萩喜従郎氏
社会におけるデザインの役割とは

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そして迎えた、1989年12月5日。福岡市中央区春吉に「ホテル イル・パラッツォ」が誕生した。リバーサイドにそびえ立ち、ひときわ異彩を放つ紅赤茶色の邸宅。この稀代の創造物は、国内外の数多くの建築家やクリエイターに注目され、彼らのクリエイティビティに刺激を与えた。
例えば、建築家の隈研吾氏は、書籍『建築トラフリフル』(1992年12月発行、TOTO出版)の中で、「ホテルイル・パラッツォ」について独自の考察を寄せた。
隈氏によると、西欧的な秩序とはかけ離れたアジア的な空気こそエネルギッシュで魅力的であり、「ホテル イル・パラッツォ」が建つエリアは、「日本の中で最もアジア濃度が高い魅力的な地域と言っても過言ではない」と展開する。
そうしたなかで、西欧的な「秩序」と「比例」にのっとった古典主義建築派の代表とも言えるアルド・ロッシが登場し、春吉という未開の地にセンセーショナルな芸術をもたらした。その状態を、隈研吾氏は「ハキダメニツル」というユニークな表現で評価したのだった。

また、別の見方をすれば、当時の時代背景とデザイン史の観点から「ホテル イル・パラッツォ」を再考するのも興味深い。
「ホテル イル・パラッツォ」が生まれた時代は、昭和から平成にかけてさまざまな出来事やカルチャーが混在する、激動の転換期だった。
日本は1985年、「プラザ合意」を受け、内需拡大および円高・金利の低下で好景気の兆しが見えていた。海外旅行やレジャー開発などの消費経済が進行。戦後、急速に経済成長を遂げた日本人の暮らしは成熟期を迎え、生活や価値観が少しずつゆたかに変容しはじめたころだった。
こうした時代背景のなかで、社会におけるデザインの役割も少しずつ変化を遂げてきた。60年代から70年代にかけて、「インテリアデザイナー」という仕事が世の中に認知されはじめ、国内にはファッションデザイナーによるブティックや新しいスタイルのカフェやレストランなど、デザイナーがデザインした空間が生まれはじめていた。

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さらに、80年代に入ると企業活動とデザインの距離が近くなり、商業とデザインは密接に関わり合いながら独自の文化を築いていく。「ホテル イル・パラッツォ」に携わった内田繁氏や倉俣史朗氏らは、まさにその時代を切り開いた新鋭のインテリアデザイナーだった。
内田繁氏は、「デザインを人々の生きていく時間と空間に必要なものであり、量産的な環境を、個性豊かで希望の持てるものにしたい」という信念のもと、活動を続けていたのだ。
デザインの意義を問い、デザイナーという存在を社会において確立する。そして、デザインの力で新たな価値を創造すること。アートディレクター・内田繁氏が「ホテル イル・パラッツォ」を通して表現したかったのは「デザイン」そのものの真価であり、都市と建築のまだ見ぬ可能性だった。
「デザイン」とは何なのか。「社会」とは何なのか。そして、「生きる」とはどういう行為なのか——。
「ホテル イル・パラッツォ」には、そんな純粋で力強いメッセージが脈々と流れ続けている。
#Profile

内田 繁
インテリアデザイナー
1943年横浜生まれ。日本を代表するデザイナーとして国際的評価を受けるなか、各国での講演やコンペティションの審査、展覧会、世界のデザイナーの参加するデザイン企画のディレクションなど、つねにその活動が新しい時代の潮流を刺激し続けてきた。毎日デザイン賞、芸術選奨文部大臣賞等受賞。紫綬褒章受章。専門学校桑沢デザイン研究所所長を歴任。代表作に、山本耀司のブティック、神戸ファッション美術館、茶室「受庵 想庵 行庵」、六本木ヒルズのストリートスケープ計画などのほか、ホテル イル・パラッツォ、ザ・ゲートホテル雷門などホテルの総合的デザインも取り組む。メトロポリタン美術館、モントリオール美術館等に永久コレクション多数。著書に「日本のインテリア全4巻」「インテリアと日本人」「普通のデザイン」「戦後日本デザイン史」など多数。

アルド・ロッシ Aldo Rossi
建築家(1931-1997年)
建築理論・ドローイング・設計の三つの分野で国際的な評価を受けたイタリアを代表する世界的な建築家。ポストモダン建築を代表する建築家のひとり。代表作にモデナの墓地(イタリア)、カルロ・フェリーチェ劇場(イタリア)、ボネファンテン美術館(オランダ)などがある。その他にも数多くの大規模プロジェクトを手がけ、多くのコンペティションとアワードを受賞。1990年には、建築界のノーベル賞ともいわれる「プリツカー賞」を受賞。